日々ブリッジ

エッセイもどきブログ

卒論のあとがき「わたしはフェミニストじゃないです。だけど…」

めちゃくちゃめちゃくちゃ久しぶりにこのブログを開いた。

一番古い記事が4年前でびっくりしたし、

少なくとも今の自分よりは勉強ができそうなこと書いてるなと思った。

 

それで、本題。突然だけど、卒論のあとがきを載せたいと思う、

というのも、フラワーデモがあったりで思うところがあったから。

卒論は言いたいを詰め込んで書いたけど、このあとがきが一番と言ってもいいくらい言いたい事だったりした。読んだ人たぶん先生しかいないけど。

ので載せてみる。

今見ると不勉強だなあとか、男女二元論で書くなよとかいろいろ思うけど、そのへんはまあ、その、ご容赦くださいね。

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「I’m not a feminist, but…」(わたしはフェミニストじゃないです。だけど……)」

このフレーズは、フェミニズムの成果は受けいれつつもそのイデオロギーと同等視されることを避け、フェミニズムにと距離を取りたがっていることを暗示していると田中東子は指摘する[1]。そして、こうした感性は、「日本の若い女性たちのあいだで広く共有されているようだ」とも。

この文章を読んだとき、共感とともに驚愕した。日本の女性たちが“フェミニスト”や“フェミニズム”から距離を取りたがっているように感じるのは、私の個人的な感覚ではなかったのだ。というのも、この4年間、私は幾度もこうした言葉―あなたはフェミニストなんだよね。私はフェミニストじゃないんだけど、といったような言葉――を聞いてきたからである。私にそう告げた友人たちには、悪気などなく、私に歩み寄ろうとしてくれていたのだろう。しかし、「私はフェミニストじゃないんだけど」という言葉を聞く度に私は考えてしまった。彼女たちにとって、“フェミニスト”っていったい何なのだろう。「男のようになりたいと思っている怒れる女」[2]?、「ジェンダーに関する平等を最優先に考えて行動している―たとえば、同一労働に同一賃金を、とか、女性と男性で家事や育児を分担しよう、とかいった―女性」[3]?、それとも、わたしのような「大学でジェンダー学を専攻する女性」? それとも……。

私は声を大にして言いたい。「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のこと」であると。そして、考え続け行動することをやめない者こそがフェミニストであるのだと。「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」という定義は、ベル・フックスによる定義である。この定義は女優エマ・ワトソンが国連のHe for Sheのスピーチで語った言葉[4]とよく似ている。

フェミニストであることに、性別は関係がない。そう私は強く信じる。それは、フェミニズムが救うべき性別のことでもあるし、フェミニスト自身の性別の話である。「女性も、男性と同じように性差別的でありうる。そのことで男性支配が見逃されたり正当化されたりするわけではないが、同時に、フェミニズム運動は単に女性が男性に反対するものだとみなすフェミニストがいるなら、それはまたあまりにも単純素朴でまちがった考えである」[5]のだ。

フェミニズムとは、選択肢を広げるための武器である。スポーツや格闘技、リーダーを務めることといった「男らしい」と思われているものを、それをやりたくない女の子に、やりなさいと押しつけるものではない。「男らしい」ものを選びたくて、でも「女の子らしくない」と言われて、または言われることを恐れて、自分の本当に選び取りたいものを選べない人を助けるものが、フェミニズムである。

思うに、「私はフェミニストじゃないんだけど」と語る人の中の、フェミニストのイメージというものは、典型的な第二波フェミニズムのままなのだろう。すなわち、「男のようになりたいと思っている怒れる女」とか、「ジェンダーに関する平等を最優先に考えて行動している―たとえば、同一労働に同一賃金を、とか、女性と男性で家事や育児を分担しよう、とかいった―女性」のようなイメージである。現在は第3波フェミニズムと呼ばれるタームに入っているのにもかかわらず、それを知らぬまま“フェミニズム”を曖昧に受容している人が多いのだろう。

第二波フェミニズムは、家父長制的国家機関や性別役割分業に基づいて成立していた現代社会において、女性たちは性別に基づいて差別され、搾取されているという観点からさまざまな対抗概念や対抗価値を創りだし、性差別的ではない新しい社会構築と社会認識を提起してきた。しかし、こうした提起がこんにちの若い女性たちのおかれている現状とずれてしまっているという感覚も生まれるようになった。このような新しい感覚、第二波フェミニズムに共鳴しつつも抱かざるをえないかすかな違和感やためらいは、とくに若い世代の女性たちから数多くの局面で表明されるようになり、近年、そうした表明の動きは「第三波フェミニズム(Third wave feminism)」と呼ばれるようになった、というわけである[6]。 先に挙げたフックスやワトソンの語る「フェミニズム」も非常に第三波的な立場である。 

そして本論文も第三派フェミニズム的な視点で、女性たちの美の実践を読み解くものである。第三波フェミニズムは「文化、とくにポピュラー文化の生産者としてさまざまなメディアを使いはじめている女性たちの文化実践を強調し、研究の焦点としていく立場を積極的に取っている」[7]ため、ポピュラー文化研究は切り離せないものであるからだ。

結局、日本の女性たちが「フェミニズム」と距離を取りたがる状況をなんとか動かすには、どうすればよいのだろうか。エマ・ワトソンフェミニズムに関する見事なスピーチを、アリアナ・グランデのツイート[8]を見せれば、問題が解決するのだろうか。すなわち、「このように、人気のある女性たちがフェミニズムについて語っているのですよ、だからフェミニズムは怖いものではありませんよ」と語ることは、「フェミニズムアレルギー」の特効薬たり得るのだろうか。おそらく、そうではない。もちろんきっかけの一つになるだろうけども、これらが薬として効くためには、そうするための土台がまず必要である。

では、どうすればよいのか。私は、「種」を埋めることに意味があるのではないかと考える。すなわち、性差別に対する、それはよく考えればおかしいのではないか、という疑問―そしてフェミニズムはそういったものを何とかできるのはないか、という希望―を生むことである。エマのスピーチや、アリアナの声は、肥料や水である。種に、肥料や水を与えることで発芽を促すのだ。だから、私は種を蒔くものになりたい。そのためには、「あの人のくれたこの種は、悪いものではないだろう」と思ってもらえるくらい、信頼できる人間でありたいと思う。

と、思っているのは本心なのだけれど、時々「私が何かを言ったところで、何も変わらないのではないか」「こんなに熱くなるなんて、相当な変わり者だと思われているのだろうな」とむなしくなるときもある。けれど、自分の頭で考えて、何か発言することをやめてしまってはいけないのだと私は思う。大野佐紀子が言うように、「『〇〇だからと言って〇〇でいいのか?』という疑問形の部分が、人間の知性や倫理と言われるものだ。『宿命』に何の疑いも持たずに生きられるのは動物である」[9]からだ。

しかしこれを続けるのは大変なことだ。憤ることはエネルギーを使う。「フェミニズムなんて/ジェンダーに関する問題なんて、自分に関係がない・考えるのが煩わしい・どうでもいい」と切り捨てることが出来たなら、どんなに楽だろう。しかし、しないことを選んだことに後悔はないし、折れそうになるたびに話を聞いて下さった先生には、本当に感謝をしてもしきれない。

壁にぶつかってばかりだけれど、種まきをするフェミニストとして生きていきたいと思う。

 

 

[1]田中東子『メディア文化とジェンダー政治学―第三波フェミニズムの視点から』世界思想社 2012年 p.3

[2] ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』堀田碧訳 新水社 2003年 p.7

[3] フックス 前掲書 p.14

[4] logmi「【全文】「今こそフェミニズムを見直すべき」 女優エマ・ワトソンが国連で“男女平等”を訴えたスピーチ」

http://logmi.jp/23710

閲覧日:2017年2月1日

[5] フックス 前掲書 p.8

[6] 田中 前掲書 p.5

[7] 田中 前掲書 p.58

[8] FRONTROW「若手No.1フェミニスト、アリアナのフェミニストな発言がかっこよすぎた瞬間9」

http://front-row.jp/news/11235/

閲覧日:2016年2月1日

[9] 大野佐紀子『「女」が邪魔をする』光文社 2009年 p.76