日々ブリッジ

エッセイもどきブログ

つくられたものを見るということ~私の専攻の話~

大学でわたしは視覚文化を分析するゼミに入っている。


視覚文化とは、人の手によって生み出されたあらゆるイメージのことで、マンガでも、絵画でも、アニメでも、キャラクターなんでもいい。

私は上記のものを分析するということを専門的にやっていくつもりだ。


しかし、どうやらこの分野に対して、世間の目は思ったより冷たいらしい。


「ルミネCM炎上事件」のことを知っているだろうか。

まんまだが、ルミネの放映したCMが女性差別的だとしてネットで炎上したという事件である。

この現象で私がショックだったのは、ルミネのCMそのものよりも、CMを批判した人たち(多くはフェミニストだったが)に対する冷たい目であった。

フェミニズムに関する話にも触れたいが、それはまた別の機会にしたい。


「そんなもののの分析とか批判とか下らない。そんなのして意味ないだろう。」


こんな感じの意見をわりと目にした。


はたして、視覚文化を分析して、批判することは無意味なのか?

いいや、そんなことはけしてない。と私は思う。


視覚的表象物とは、それが作られた時代の価値観の鏡たり得るからだ。

そして、それを分析することは、その社会の枠組みを形作ってきたものをじっと見るということを意味する。

そして、じっと見ることで、この社会の歪を認識することができるのだ。


なぜ、表象物が鏡になるのか。

それは、この世に生み出されるものは大概、人々に受け入れられることを意識して作られており、ということは、私達が受容している表象物は、私達が既に受け入れている価値観を反映して作られているということだ。


日本を代表するコピーライター仲畑貴志氏はキャッチコピーについて「社会に届くことばは、その社会が待っていたことばだ」と語っている。

表象物もこれと同じで、全く共感できない価値観に基づいたものを人々に押し付けても、共感なんて集められない。共感を集められなければ、人気が出ないなど、損をする。

だから、社会が受け入れている、あるいは待っている価値観を内包して、作者は表象物をこの世に出すのではないか。


そして、娯楽的なものこそイデオロギーをより気づかれないまま内包することができる。

「楽しい」と思わせることは、人々の目をより眩ませることができるからだ。

そして眩ませれた人々は口々に「こんなの分析して下らない」と言う。んだと思う。



ところで、人文系を学ぶ学生の肩身が狭い世の中になってきているのを感じる。

何でもかんでも、即戦力。

すぐに効果があって、すぐに儲かり、すぐに実利になるものばかりを求められているように感じるのは、私だけではないだろう。

(このへんはわりと友達の話の受け売りなんだけど)


このままどんどん進んでいったら、「ダイレクトに目に見える利益を生まない」、私の学んでいるような分野の学問が淘汰されていくのも時間の問題かもしれない。



とまあ色々考えては見たものの、所詮は「つくられたもの」を「見る」のを専門にする、結局は「つくらない」側からの考えであるので、「つくる」側のクリエイターからしたら余計なお世話なのかもしれない。

だからこそ、「つくる」ことを学ぶ美大生の人達は、どんなことを学んでいるのかなあと気になったりするんだけど。



っていうか大学生なら、みんな何かしら自分の専攻について思うところあると思うんです。

他学部の人が日々何を学んでるのか。何を考えてるのか。私はもっと知りたいと思う。ぜひ発信してほしい。

というわけで、みんなブログやろう。