日々ブリッジ

エッセイもどきブログ

0 :これからいろいろ書いていくための前置き的なもの

好きな犬種はコーギー

好きなポケモンのタイプは草タイプ。

もりです。

 

久しぶりにブログを書こうと思う。

というのも、卒論を書いている中で、世間で色々なことが起こって、学生である今のうちに、何か書いて残しておきたいと思ったから。

 

「文系大学生」として思うことや、ジェンダースタディーズ・フェミニズムへの誤解、カルチュラル・スタディーズへの世間の目など、わたしが学校で勉強してることを噛み砕いて書いていくつもりだ。

 

ということで、今回はイントロ部分だと思って頂きたい。

 

これから、私の思想信条(が絡む話)について話すことになるので、それ関係の話を少ししたい。

 

高校の時の担任の先生(もし高校時代の友人が見てたら即バレするけど)を見ていて、当時思ったことがあった。

それは、温度差は人を怪我させる。熱すぎても、冷たすぎても、我々は火傷を負うということ。

 

その先生は、いわゆるリベラル左(今思えばわりかしラディカルだったかも)的な人で、語る事や行っていることは、説得力があった。”正しい”とか、そう言えるかもしれない。

お世話になった方だけど、私は何でかちょっと苦手で、語る言葉ともどことなく距離をとっていた。

 

そんな中で、卒業式の日だったか。先生は熱のこもった、こもりすぎたスピーチをされた。自身の思想信条について、だったと思う。正直引いた。

先生は熱かった。とても。でも私はそうではなかった。

 

そうなのだ。こちらとあちらの距離感が離れていて、温度が違う時、うっかりすると火傷をしてしまうのだ。私は火傷を負った。

先生の思想や背負うものを、「正しそうだけど、胡散臭い」ものだと感じるようになってしまった。人柄と思想信条を分けれるのに、高校生の私は子ども過ぎた。

 

それから大学生になって、学んで、思うことや信じるものも増えて、気づくと私は火傷をさせる側になっていた。

温度差は人を火傷させる。

わかっていたはずなのに、何度私は人に火傷を負わせたことだろう。

学校で、友達の家で、カフェで……思い出す度に恥ずかしくなる。申し訳なくなる。

 

きっと、温度差を広げないために必要なのは、信頼だ。

「この人の語る言葉なら、信じてみてもいいかもしれない」と思えるような。

そんな誠実な人になれたらいいと思う。

 

「この人が好き。だから、この人の思想信条も正しいものに違いない」と、無邪気に考えろ、と言いたいのではない。

そもそも温度差がありすぎていたら-信頼関係が不十分であったら-話すら聞いてもらえないし、少し聞いてもらえてたとしても「正論だけど、なんか胡散臭い」で終えられてしまう危険がある、と言いたいのだ。 

 

だから、「耳を傾けてもいいかもしれない」と思ってもらえるような人になるべく、努めたい次第である。私の友人にそういう人がいるのだ。その人の影響で、前述の火傷はわりかし治ってたりする。

 

ここまで読んでくれた人は、私の言葉を聞くに値すると思ってくれた人なのだろうか。

それとも、私の日々の熱放射攻撃に慣れて、ちょっとやそっとじゃ熱さを感じなくなってしまった人だろうか。

おそらく、後者だろう。いつもご迷惑おかけしてます。

 

というわけで、これから数回に分けて、また思うところを書いていきたいと思う。