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「生足魅惑のマーメイド」の上半身は何か?~マグリット展感想②~

素人文系大学生の感想なので知識面に関して間違ってるかも。すみません。あしからず。

私は絵を見るのが嫌いじゃないので、絵画及び表象物の分析に関する授業をとっていました。
その授業で興味深かったのは、「絵画の中で、特定のイメージが固定化して繰り返されている」ということ。
具体的に言うと、「聖母マリア」は赤と青の布を纏っている、「魚」はキリストをあらわす、みたいな感じで、同じ特徴を持つ人物が色々な絵画の中に現れているということです。

そのため、宗教画や風俗画は、「ああこれはこのことを表してるんだな」と読み解くことが可能です。

たとえば、以前行ったルーブル美術館展で、「赤と青の布を纏っている女性がパンを配り、彼女の傍に赤子がいる」みたいな絵を見ました。
この絵は風俗画、ということになっていたのですが、上記のような知識を使えば、これはもう明らかに聖母子による施しの場面だな、と宗教的な意味を読み解くことができるのです。

ということで、「マグリットの絵も読み解いてみるぞー」と思って展覧会に行ってみたのですが、どうやら雰囲気が違います。
マグリットの絵は宗教画でも風俗画でもない上、マグリットは、自身の絵に解釈などないと述べているのです。

ていうか、はっきりと「雲が描いてあったらこれは雲だ。象徴とかそういうものは自分の絵にはない」みたいなことを言っています。
あらら。

マグリットの絵は、「私たちの普段周りにあるもの同士の意外な組み合わせ」と語られることがあります。
その「意外な組み合わせ」の一つが、「生足魅惑のマーメイド」的な上半身が魚で下半身が人の魚人なのかもしれません。
マグリットは、そうした「意外な組み合わせ」を見た時の、純粋な驚きやカタルシスみたいなものを、「分析」や「解釈」の介入によって薄味にされたくなかったのかなあと思います。

しかし、ダイレクトな解釈(この絵は現代の不安を暗示しているとか)ないにしても、「解釈っぽい」ことは彼自身行っていたようです。

たとえば、有名な「人間の条件」。
これは窓の傍にイーゼルが立てられ、その上のカンバスに窓の外の風景がが描かれているように見える、という作品なのですが、これは、私達は「外側」である「描かれた窓の向こう」と「内側」である部屋の中のカンバスに描かれた風景が一致している裏付けなんてない、つまり、私達が見ているものの「外側」と「内側」の区別 について疑いを投げかけている作品だそうです。

ちょっと違うかもしれないけど、わたしはこの絵から、
外側=実際の事物や世界、内側=私達が作り上げてしまう「イメージ」として事物のギャップの話なんじゃないかな?と思いました。

いつか、授業の一環で先生と友達数人で古事記展をみにいったことがあります。
そこでは古事記に関する、絵画を始めとした神話的な日本のイメージがずらりと並んでいました。そして、最後のコーナーに、古代の日本で作られた剣が置いてあったのです。
おおーなんて思いながら見ていた私に、先生はこんなことを言いました。

「それ、ただの剣だよ。でも、今まで色々見てきたから、なんだかすごいものに見えちゃうでしょ?」

私ははっとしました。

外側=事物そのもの=この剣は、ただの剣であり、神秘的な要素なんて無いただの道具です。
でも、この剣に至るまで散々「古事記による古代日本の神話的イメージ」を見てきた私達は、その剣をなにかしら神秘的な物として認識してしまっていました。
つまり、内側=勝手に神話的イメージを付与した剣ができあがってしまっていたのです。

そして、この内側=イメージによって作られた鍵カッコつきの事物を消費できる、消費するしかない生き物こそが人間で、だからこそこの絵に「人間の条件」なんて、つけたのかなあと思いました。

(人間の条件、このテイストのシリーズの二枚目の作品なので絶対違うんですけどね)


以上、マグリット展感想でした。