日々ブリッジ

エッセイもどきブログ

量産型女子とキャンベルスープ缶の話

この話は何人かの人にしたことがあるが、一度文章にしたかったので書いてみる。

 

キャンベルスープ缶」という美術作品がある。

 

これは、アンディ・ウォーホルという現代美術家の代表的な作品で、キャンベルスープ缶がただひたすら繰り返しになって並んでいるという、ただそれだけの作品である。

有名な作品なので、同作者による「マリリン・モンロー」とならんで見たことがある人もいるだろう。

この作品は、大量生産・大量消費を繰り返すようになった現代社会の歪みのようなものを表していると語られている。

そんなわたしがはじめて「キャンベルスープ缶」を見てこの説明を聞いた時、「ふーん」としか思わなかった。わかるようなわからないような、そんな感じだ。

ところが、最近「こういうことなのか」と思う出来事に遭遇した。

 

大阪の某百貨店(?)に行った時のことだ。

部活の用事でたまたま梅田に用があったわたしは、ふとなんとなしにその百貨店に入ってみた。新しくできた店だったし、行ってみたい店舗が入っていたからだ。

エスカレーターで目当ての店を目指し登って行く途中、ふとエスカレーターですれ違う人々や、下の階で買い物をしている人々を見下ろした。

 

同じような年頃の女性がみな、似たような化粧で 似たような髪型で 似たような服で 似たようなお店に入っていく景色が見えた。

ゾッとした。

 

「最大公約数的な20代女性の好きな物を売る店」に、似たような身なりをした女性達が入っていくのだ。みな楽しそうに。

そして、わたしもそのうちの一人だった。わたしもキャンベルスープ缶の一つだった。

ああ、これこそが、と思った。

わたしはいわゆる量産型女子について、悪いとは思わない。量産型とよばれる格好は、誰にでも似合いやすいから流行っているのであって、結果着る人が増加し、量産型と呼ばれるにいたるのだと私は思っている。だから、自分の似合う好きな服や化粧、髪型を選択するのは自由だし、叩くつもりはない。

だが、「集まるべく意図された場所」に「集まるよう意図された人々」がきれいに集約しているのを見ると、どうしても大量生産・大量消費をあおる何者かの存在を感じずにはいられない。

わたしも踊らされるキャンベルスープ缶の一つだ。だけど、せめて、自覚したキャンベルスープ缶でありたい。

 

 

長々と語ってしまったが、わたしは現代美術にあかるいわけではまったくない。「ルネ・マグリットきれい」程度の知識しかない。にわかもにわかだ。間違っていたら申し訳ない。

今日はこのへんで。