日々ブリッジ

エッセイもどきブログ

卒論のあとがき「わたしはフェミニストじゃないです。だけど…」

めちゃくちゃめちゃくちゃ久しぶりにこのブログを開いた。

一番古い記事が4年前でびっくりしたし、

少なくとも今の自分よりは勉強ができそうなこと書いてるなと思った。

 

それで、本題。突然だけど、卒論のあとがきを載せたいと思う、

というのも、フラワーデモがあったりで思うところがあったから。

卒論は言いたいを詰め込んで書いたけど、このあとがきが一番と言ってもいいくらい言いたい事だったりした。読んだ人たぶん先生しかいないけど。

ので載せてみる。

今見ると不勉強だなあとか、男女二元論で書くなよとかいろいろ思うけど、そのへんはまあ、その、ご容赦くださいね。

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「I’m not a feminist, but…」(わたしはフェミニストじゃないです。だけど……)」

このフレーズは、フェミニズムの成果は受けいれつつもそのイデオロギーと同等視されることを避け、フェミニズムにと距離を取りたがっていることを暗示していると田中東子は指摘する[1]。そして、こうした感性は、「日本の若い女性たちのあいだで広く共有されているようだ」とも。

この文章を読んだとき、共感とともに驚愕した。日本の女性たちが“フェミニスト”や“フェミニズム”から距離を取りたがっているように感じるのは、私の個人的な感覚ではなかったのだ。というのも、この4年間、私は幾度もこうした言葉―あなたはフェミニストなんだよね。私はフェミニストじゃないんだけど、といったような言葉――を聞いてきたからである。私にそう告げた友人たちには、悪気などなく、私に歩み寄ろうとしてくれていたのだろう。しかし、「私はフェミニストじゃないんだけど」という言葉を聞く度に私は考えてしまった。彼女たちにとって、“フェミニスト”っていったい何なのだろう。「男のようになりたいと思っている怒れる女」[2]?、「ジェンダーに関する平等を最優先に考えて行動している―たとえば、同一労働に同一賃金を、とか、女性と男性で家事や育児を分担しよう、とかいった―女性」[3]?、それとも、わたしのような「大学でジェンダー学を専攻する女性」? それとも……。

私は声を大にして言いたい。「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のこと」であると。そして、考え続け行動することをやめない者こそがフェミニストであるのだと。「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」という定義は、ベル・フックスによる定義である。この定義は女優エマ・ワトソンが国連のHe for Sheのスピーチで語った言葉[4]とよく似ている。

フェミニストであることに、性別は関係がない。そう私は強く信じる。それは、フェミニズムが救うべき性別のことでもあるし、フェミニスト自身の性別の話である。「女性も、男性と同じように性差別的でありうる。そのことで男性支配が見逃されたり正当化されたりするわけではないが、同時に、フェミニズム運動は単に女性が男性に反対するものだとみなすフェミニストがいるなら、それはまたあまりにも単純素朴でまちがった考えである」[5]のだ。

フェミニズムとは、選択肢を広げるための武器である。スポーツや格闘技、リーダーを務めることといった「男らしい」と思われているものを、それをやりたくない女の子に、やりなさいと押しつけるものではない。「男らしい」ものを選びたくて、でも「女の子らしくない」と言われて、または言われることを恐れて、自分の本当に選び取りたいものを選べない人を助けるものが、フェミニズムである。

思うに、「私はフェミニストじゃないんだけど」と語る人の中の、フェミニストのイメージというものは、典型的な第二波フェミニズムのままなのだろう。すなわち、「男のようになりたいと思っている怒れる女」とか、「ジェンダーに関する平等を最優先に考えて行動している―たとえば、同一労働に同一賃金を、とか、女性と男性で家事や育児を分担しよう、とかいった―女性」のようなイメージである。現在は第3波フェミニズムと呼ばれるタームに入っているのにもかかわらず、それを知らぬまま“フェミニズム”を曖昧に受容している人が多いのだろう。

第二波フェミニズムは、家父長制的国家機関や性別役割分業に基づいて成立していた現代社会において、女性たちは性別に基づいて差別され、搾取されているという観点からさまざまな対抗概念や対抗価値を創りだし、性差別的ではない新しい社会構築と社会認識を提起してきた。しかし、こうした提起がこんにちの若い女性たちのおかれている現状とずれてしまっているという感覚も生まれるようになった。このような新しい感覚、第二波フェミニズムに共鳴しつつも抱かざるをえないかすかな違和感やためらいは、とくに若い世代の女性たちから数多くの局面で表明されるようになり、近年、そうした表明の動きは「第三波フェミニズム(Third wave feminism)」と呼ばれるようになった、というわけである[6]。 先に挙げたフックスやワトソンの語る「フェミニズム」も非常に第三波的な立場である。 

そして本論文も第三派フェミニズム的な視点で、女性たちの美の実践を読み解くものである。第三波フェミニズムは「文化、とくにポピュラー文化の生産者としてさまざまなメディアを使いはじめている女性たちの文化実践を強調し、研究の焦点としていく立場を積極的に取っている」[7]ため、ポピュラー文化研究は切り離せないものであるからだ。

結局、日本の女性たちが「フェミニズム」と距離を取りたがる状況をなんとか動かすには、どうすればよいのだろうか。エマ・ワトソンフェミニズムに関する見事なスピーチを、アリアナ・グランデのツイート[8]を見せれば、問題が解決するのだろうか。すなわち、「このように、人気のある女性たちがフェミニズムについて語っているのですよ、だからフェミニズムは怖いものではありませんよ」と語ることは、「フェミニズムアレルギー」の特効薬たり得るのだろうか。おそらく、そうではない。もちろんきっかけの一つになるだろうけども、これらが薬として効くためには、そうするための土台がまず必要である。

では、どうすればよいのか。私は、「種」を埋めることに意味があるのではないかと考える。すなわち、性差別に対する、それはよく考えればおかしいのではないか、という疑問―そしてフェミニズムはそういったものを何とかできるのはないか、という希望―を生むことである。エマのスピーチや、アリアナの声は、肥料や水である。種に、肥料や水を与えることで発芽を促すのだ。だから、私は種を蒔くものになりたい。そのためには、「あの人のくれたこの種は、悪いものではないだろう」と思ってもらえるくらい、信頼できる人間でありたいと思う。

と、思っているのは本心なのだけれど、時々「私が何かを言ったところで、何も変わらないのではないか」「こんなに熱くなるなんて、相当な変わり者だと思われているのだろうな」とむなしくなるときもある。けれど、自分の頭で考えて、何か発言することをやめてしまってはいけないのだと私は思う。大野佐紀子が言うように、「『〇〇だからと言って〇〇でいいのか?』という疑問形の部分が、人間の知性や倫理と言われるものだ。『宿命』に何の疑いも持たずに生きられるのは動物である」[9]からだ。

しかしこれを続けるのは大変なことだ。憤ることはエネルギーを使う。「フェミニズムなんて/ジェンダーに関する問題なんて、自分に関係がない・考えるのが煩わしい・どうでもいい」と切り捨てることが出来たなら、どんなに楽だろう。しかし、しないことを選んだことに後悔はないし、折れそうになるたびに話を聞いて下さった先生には、本当に感謝をしてもしきれない。

壁にぶつかってばかりだけれど、種まきをするフェミニストとして生きていきたいと思う。

 

 

[1]田中東子『メディア文化とジェンダー政治学―第三波フェミニズムの視点から』世界思想社 2012年 p.3

[2] ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』堀田碧訳 新水社 2003年 p.7

[3] フックス 前掲書 p.14

[4] logmi「【全文】「今こそフェミニズムを見直すべき」 女優エマ・ワトソンが国連で“男女平等”を訴えたスピーチ」

http://logmi.jp/23710

閲覧日:2017年2月1日

[5] フックス 前掲書 p.8

[6] 田中 前掲書 p.5

[7] 田中 前掲書 p.58

[8] FRONTROW「若手No.1フェミニスト、アリアナのフェミニストな発言がかっこよすぎた瞬間9」

http://front-row.jp/news/11235/

閲覧日:2016年2月1日

[9] 大野佐紀子『「女」が邪魔をする』光文社 2009年 p.76

あまりにも喉に刺さった小骨「グレイテスト・ショーマン」

やっぱり我慢出来なかったので書きます。
味付けは最高の焼き魚だったんだけど、喉にザクザク小骨が刺さる。
そんな映画でした「グレイテスト・ショーマン」。
 
「ミュージカル見たい欲」はガッツリ満たされました。
軽快な歌とダンス、目まぐるしく代わるきらびやかなミュージカルシーンは目を見張りました。素晴らしい。泣いたし。
 
 
 
~以下キレ気味ネタバレ感想~
 
 
でもさあ~~~~~それだけじゃ駄目なんだよ~~~それだけじゃ絶賛はできないです。
差別・多様性をテーマとして扱おうというのなら、それなりの矜持を見せて貰わなきゃダメです。
2018年なんだから。カンフーヨガじゃないんだよ!!!
 
細かい気になるとこは色々あります。
たとえば、
 
・中盤の酒場のシーン、「これこそ本当に求めていたもの!」ってサーカスの仲間と歌った後に、
妻の実家いくのなんなの???
虐げられてきた子供時代を思い、同じように虐げられた人たちと手を取り合って、もう一度目にもの見せてやるぞ!てなるのかと思ったら、汽車飛び乗って妻の実家行ったのでびっくりしました。
サーカスの面々も「やっぱ家族とか身近な幸せが大事だわ!」っつってまた自分達置いて飛び出してった雇い主見て、なんでそんな満足げに微笑んでるの???わかんねえよ…
 
 
とか、
 
・オペラ歌手のプロ意識……
惚れた男がなびかないから歌いませんて……パワハラやんけ……男女逆なら大炎上だろ………
 
 
とか。
 
でも、1番もやもやするのは
 
一見すると「多様性だいじ!」って言ってるように見えるけど、実は真逆のことをしてるってところですね。
つまり、「多様な」人々を記号として描く、ひとまとめにしてその人々の「多様さ」を描写しないってこと。
「言ってることとやってること違うじゃん!」みたいな。
だから、そんなノリ見ててThis is meを歌われても、私はあまり響かなかった。
いやお前も差別する側なんかい!みたいな。バーナムもそこからジュディみたいにトライエブリシングすることもなかったしね…。
 
バーナム、別に多様性の素晴らしさを謳おうとか、差別に晒されてきた人々を救おうみたいに思ってなくてビジネスでやってるだけなのに、あたかも彼が人道的理由からサーカス団結成して慕われてるみたいに見せてくるのが謎だし、、、
 
あとは「マイノリティ(そしてこれは往々にして、何かしらの才能があるとか特別な人たち)」を「受け入れてあげる」マジョリティって図が展開されるのを危惧してたけど、そんな感じのシーン全然なかったもんね…悪い意味で…客も「商品」としてしかサーカス団見てなかったね…
 
「ヘアスプレーと同じく、差別に真っ向から向き合った映画!」って感想を見ましたが、ほんと勘弁してください。全然違います。
「映画好きは色々いってるけど、ショーとして楽しめば最高!」みたいな感想も見たけど、いやそれバーナムやサーカス団をcut me downしてきた人とやってること同じでは…。マイノリティの描写を瑣末なこととして切り捨て、「楽しければOK!」ってめっちゃ暴力的じゃない???
 
 
とまあ色々キレながら書きましたが、「グレイテスト・ショーマン見た」ってツイートしたら、
推しの後輩から感想のLINEきたので見て良かったなと思いました。
ララランドもグレイテスト・ショーマンも美女と野獣もノットフォーミーだったわたしを誰か救ってくれ…

『ヘアスプレー』で私が日本で一番泣いてると思う

私が石油王になったらリメイクしたい映画No1『ヘアスプレー』を久しぶりに見ました。

 

この映画、音楽と美術・衣装といった「ポップなビジュアル」が評価されがちなイメージだけど、

私はこの作品を貫く「人は属性(人種、容姿、体型)で差別されるべきでない」っていうテーマがめちゃくちゃ好きなんだな‥‥。

 

人種差別については言わずもがなですが、容姿や体型を馬鹿にすることってあんまり差別的って思われてないですよね。容姿や体型差別って「些末なこと」「個人的なこと」って言われがちで。

「デブ/ブス」は笑ってもOK。みたいな。「ネタだから」みたいな。(よくねーよ!)

そこを「人の見た目を笑うのは悪役(古い価値観にとらわれたダサいやつ)の理屈だぜ!」ってやってくれたのはうれしかったし、

エドナもトレイシーも、痩せないとって卑屈になったりせず、自分の身体を肯定的にとらえてるのがいい。新品のドレスで素敵!って踊ったりね。

「You can't stop the beat」で「私の体型に文句があるやつは知るか黙ってろ!」っていうのもすごく好きだ。

世間様の呈示する「うつくしいからだ」に、無理やり合わせなくていいんだよ!私の体は私のものなんだから!好きにさせろ!!give a damm!

 

あとは、とにかくトレイシーが好き。軽やかでまっすぐなんだよね。

シーウィードたちに同情的に接することなく、対等な友として接する。

ヴェルマにも臆することなく、自分が正しいと思ったことを言い行動に移す。

すげえよ・・・。

 

もしこの映画が現代を舞台にリメイクされることがあるなら、ゲイカップル、アセクorノンセクのキャラクターが「You cant stop the beat」を歌うんだろうな・・・・・。

好きなのが同性だって、誰かを恋愛的に愛せなくたって、私たちは進むんだ!

誰にも止めることなんてできないんだ!って‥‥・。見たい…。

 

 

なんで唐突にこの話したかっていうと、「グレイテスト・ショーマン」があまりにもnot for meだったからです。( Filmarksにキレ散らかしたレビューをかいてしまいました)

あの映画、関係ないけど2回くらい「バーフバリじゃん」と思った。

どうでもいいですね。

 

 

『世界を変える力があるのなら』ーリトルウィッチアカデミアにおける「魔法」とアニメーションー

リトルウィッチアカデミアの最終回が好きだ。

その理由をめっちゃ語りたかった。ので語る。

 

リトルウィッチアカデミアとは、

新入生として魔法学校に入学した主人公が

成長していく姿を描いたテレビアニメ作品。

 

この作品は過去に2回映画版が作られていて、

最初の映画版が作られたきっかけは、

「アニメーションの未来」をテーマにしたイベントだったそうで。

製作陣営は「新人アニメーターがアニメ業界に飛び込む話」を描こうと思い、

この作品を制作したんですって。

 

つまり、何が言いたいかっていうと、

魔女=アニメーターで、

魔法=アニメーションのメタファーだってことなんですよ!!!!

  

最終回、危機に陥った世界の中で、

主人公は「世界を変える力がある」と言い伝えられてきた

伝説の魔法を手に入れます。

主人公は魔法を使う前に言うんです。

「世界を変えられるなら、私は、みんなが笑いあえる世界にしたい」と。

そして彼女の使った魔法は世界を救い、

その輝きは世界中の子供や大人に笑顔を与えたのでした。

 

もう号泣。

魔法=アニメーション、ひいては創作物は、世界を変える力がある。

そしてその力は私たちを笑顔にしてくれるのだと。

作った人たちのそういう気持ちがビシビシ伝わってきて、、、、

 

ここでいう「笑顔に変える力」は楽しい!面白い‼的な気持ちを与えるものだけじゃないと思うんですよ。

生きていく希望を与えたり、勇気を与えたり、エンパワメントしたり、そういうものも「笑顔に変える力」だと私は思う。

ズートピア、ヘアスプレー、ゴーストバスターズ(リブート版)、スティーブンユニバース・・・・

この記事なんか、まさにそう。

 スーパーガール(のアレックス)、またしても少女を助ける。しかも、現実世界で - 石壁に百合の花咲く

www.ishiyuri.com

 

実話を基にしてるけど、最近だと「ドリーム(Hidden Figures)」もそうですよね。

こんな作品があるなら、この世は捨てたもんじゃない、まだ前に進める、と思わせてくれる。

本当に「魔法」ですよね。

 

 

もうほんと、魔法が世界を包んで、世界中の人が笑顔になるシーンがね。。。

子どもの笑顔がアップになるんですよ。

子供たちに生きていく希望を与えたい、ていう思いが伝わってきて、、、、

やばいですね。

 

以上 すっきりしました。

 

 

0 :これからいろいろ書いていくための前置き的なもの

好きな犬種はコーギー

好きなポケモンのタイプは草タイプ。

もりです。

 

久しぶりにブログを書こうと思う。

というのも、卒論を書いている中で、世間で色々なことが起こって、学生である今のうちに、何か書いて残しておきたいと思ったから。

 

「文系大学生」として思うことや、ジェンダースタディーズ・フェミニズムへの誤解、カルチュラル・スタディーズへの世間の目など、わたしが学校で勉強してることを噛み砕いて書いていくつもりだ。

 

ということで、今回はイントロ部分だと思って頂きたい。

 

これから、私の思想信条(が絡む話)について話すことになるので、それ関係の話を少ししたい。

 

高校の時の担任の先生(もし高校時代の友人が見てたら即バレするけど)を見ていて、当時思ったことがあった。

それは、温度差は人を怪我させる。熱すぎても、冷たすぎても、我々は火傷を負うということ。

 

その先生は、いわゆるリベラル左(今思えばわりかしラディカルだったかも)的な人で、語る事や行っていることは、説得力があった。”正しい”とか、そう言えるかもしれない。

お世話になった方だけど、私は何でかちょっと苦手で、語る言葉ともどことなく距離をとっていた。

 

そんな中で、卒業式の日だったか。先生は熱のこもった、こもりすぎたスピーチをされた。自身の思想信条について、だったと思う。正直引いた。

先生は熱かった。とても。でも私はそうではなかった。

 

そうなのだ。こちらとあちらの距離感が離れていて、温度が違う時、うっかりすると火傷をしてしまうのだ。私は火傷を負った。

先生の思想や背負うものを、「正しそうだけど、胡散臭い」ものだと感じるようになってしまった。人柄と思想信条を分けれるのに、高校生の私は子ども過ぎた。

 

それから大学生になって、学んで、思うことや信じるものも増えて、気づくと私は火傷をさせる側になっていた。

温度差は人を火傷させる。

わかっていたはずなのに、何度私は人に火傷を負わせたことだろう。

学校で、友達の家で、カフェで……思い出す度に恥ずかしくなる。申し訳なくなる。

 

きっと、温度差を広げないために必要なのは、信頼だ。

「この人の語る言葉なら、信じてみてもいいかもしれない」と思えるような。

そんな誠実な人になれたらいいと思う。

 

「この人が好き。だから、この人の思想信条も正しいものに違いない」と、無邪気に考えろ、と言いたいのではない。

そもそも温度差がありすぎていたら-信頼関係が不十分であったら-話すら聞いてもらえないし、少し聞いてもらえてたとしても「正論だけど、なんか胡散臭い」で終えられてしまう危険がある、と言いたいのだ。 

 

だから、「耳を傾けてもいいかもしれない」と思ってもらえるような人になるべく、努めたい次第である。私の友人にそういう人がいるのだ。その人の影響で、前述の火傷はわりかし治ってたりする。

 

ここまで読んでくれた人は、私の言葉を聞くに値すると思ってくれた人なのだろうか。

それとも、私の日々の熱放射攻撃に慣れて、ちょっとやそっとじゃ熱さを感じなくなってしまった人だろうか。

おそらく、後者だろう。いつもご迷惑おかけしてます。

 

というわけで、これから数回に分けて、また思うところを書いていきたいと思う。

 

今夏見た映画(ファインディング・ドリー/ソングオブザシー/ゴーストバスターズ/君の名は。)まとめ感想

銀魂の作者の空知先生はグッとくる文章をよく書かれるけど、その中で何故か心に残っている話がある。

空知先生は映画を見て、物語が終わってしまうのがいつも寂しくて、終わったあとに自分だけ取り残されてしまう感覚を感じていた。その感覚が嫌で、「だったらいっそ、こっちが取り残す側になってやる!物語を作る側になってやる!」と思ったそうだ。

 

この映画を見たあとの「取り残され感」とか、「置いていかないで!感」、すごくわかるなあ。私にとってのナイトミュージアムがまさにそれ。

というわけで、今夏見た映画の感想です。

 

見たのは、

ファインディング・ドリー

ソング・オブ・ザ・シー

ゴーストバスターズ(字幕&吹き替え)

君の名は

です。

せっかくなので感想。全然ためにならないしレビューって程でもないけど書きたいから書く。

 

ちなみに好きだ!気に入った順で並べたら、 

ゴーストバスターズ>>ソングオブザシー>君の名は≒ファインディング・ドリー

かなあと思います。

 ネタバレめっちゃするよ。

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――

 

ファインディング・ドリー

 

正直な感想は「感想があんまりない………」でした。て、思ってしまうのも私が障害者福祉にあまり興味がないからなのかも……とレビュー見て再確認。どこかで見たんだけど、この映画はファインディング・ニモのニモパート(=challengedな特性を持つキャラクターがそれを克服する物語)を丁寧に読み直した作品であり、ドリー=障害のある人 マーリン=健常者の本音 ニモ=その2者の理想的な仲介者、てのを見てなるほど~と思った。

あとキャラに関して。ハンク&ドリーのコンビも好きだけど、(ファインディング・ニモが好きなので)やっぱりマーリン&ドリーのコンビが私は好き。ニモの言う「マーリンのやり方」を、ドリーが無意識にやっていたとことかグッときました。

  

②ソングオブザシー

 

背景と音楽美しすぎて即泣いた。

アザラシの妖精、セルキーの伝説をモチーフにしたアイルランド民話のアニメです。すげーなマイナーで海外アニメファンの間で話題になってるやつ。

 

あらすじざっくり。

ベンとシアーシャの兄妹が主役。

妹を産むと同時に姿を消してしまった2人のお母さん。「妹がお母さんを奪ったんだ!」なんて思いから、ベンはシアーシャに冷たくあたってしまっている。そんなある日、シアーシャが偶然見つけたコートを来て海に潜ると、彼女はアザラシの姿に。シアーシャはアザラシ妖精セルキーだったのだ。

的な。

 

美術に関して。海のうた、だけあって海のシーンが多い。特にシアーシャとクジラが泳ぐシーンは凄まじくて、海の冷たさ、息苦しさ、美しさが鮮烈で、思わず「ここから出して」て思ったくらい。(真っ暗な映画館で見たからなおさら。)丸や曲線の平面的でクリムトの絵画のような表現がお伽噺と相まってとてもよかった。(インタビューでクリムトオマージュしてます、て言ってた。当たった!)資料集欲しすぎ。

音楽に関しても、ケルト音楽が見事に絵とマッチしていて郷愁を誘う感じがいい。劇中のセルキーの子守唄やエンドロールのlullabyも謎の涙を誘う。moon the made of goldって表現が好き。

 

ジブリ作品も多分そうなんだけど、理性や文明の偏重で自然への敬意がなくなっていってることへの優しい警笛を感じた。監督は妖精伝説のあるはずのアザラシ(の死体)がぞんざいに扱われているのを見て悲しく思い、この映画を作るきっかけの一つにしたそうだ。我々はもともと自然だったのだし、それと共に生きてるのだから、そのことを忘れてはダメなんだなあ。お母さん(実はセルキー)の「忘れないで、私は物語の中にいるわ」が象徴的だなあと。セルキー=物語=自然であり、「私のことを覚えていて欲しい」のは、息子であるベンであり、これを見ている私達なんだなあと。

優しい気持ちになれます。この映画おすすめ。1人で夜か朝に見て欲しい。

 

 

ゴーストバスターズ

 

ホルツマンと結婚したい……………………………………

 

 この映画語ろうとすると、「ホルツマンのここがグッとくる!」になってしまう……。

吹き替えと字幕の両方見たんだけど、字幕→吹き替えで見るのがおすすめ。吹き替えはボーナストラックって感じで。芸人が主人公の吹き替えしてるけど、けっこう上手いので吹き替えもよい。ただ、吹き替えと字幕でホルツマンのキャラがわりと違うので、吹き替え(やる時はやる悪ガキ少年)→字幕(クールでクレイジーなお姉さん)見ると物足りなく感じるかも。ちなみに、悪役は吹き替えの方が中二病こじらせたキモ男感がいい感じに出ててよかった。

 

ギャグは爆発力強い感じより、じわる系。じわり系ギャグとクール(冷静な、の意でなくカッケー!の意)な女性が闘う映画が好きならぜひ見て欲しい。

(あとLet's goをかますぜって訳した人に国民栄誉賞。)

 

あと、この映画の「オトコには弱いけど、オバケには強い」ってコピー考えたヤツ誰だよ!!オトコに弱い描写どこだよ!そもそも女性が主人公ってだけで「男」の存在を持ってくるの何なんだよ!

 

 

 ④君の名は

爽やかハッピーエンドでよかった~

 

この監督の映画初めて見たんだけど、やっぱり背景の書き込みがすごい。The beautiful Japanemation て感じ。

特に東京のビル群の描写が綺麗だったのが感動した。自然みたいな元々綺麗なものを綺麗に描くのは比較的簡単だと思うけど、ああいう人工物を綺麗に描写するのは、なかなかできないと思う。

この監督の背景美術をみんなが「きれい!」て絶賛するのは、ノスタルジーがエッセンスとして散りばめられてるからだと思う。

いつか小さい頃に見たような、高校の時の帰り道に見たような、「今ではないどこか、記憶の中のあの時」にありそうな風景が過剰な光でキラキラと飾られている感じ。時々壁紙で見る「夕暮れ時の田舎に女の子の後ろ姿」「ウユニ塩湖的な世界で女の子がひとり」的なイメージに似てるような……。

同じ「背景の美しい」映画なら、わたしはソング・オブ・ザシーの方が好みかな。

 

ラストシーンのカタルシスがない!!て思ったけど、この監督の作品にそれを求めるのはどうやら違うみたい。(どこかのレビュー見て)ハッピーエンドも珍しい感じ?なら仕方ないか。

 

でもやっぱりちょくちょく納得いかないというか、無理を感じる所はあったかなあ(例えば、三葉と父の関係が変わっていく描写がない(対峙した所あったけど、あれで説明になってるとは思えないし)のに、最後に説得できました!と後で見せられても??て感じ) 

 

わたしエヴァとか細田守監督作品とか、「ザ ・世界に誇る、日本のアニメ」みたいなのが何故か苦手で。ちょっと食わず嫌いしてたけど、見たらけっこう楽しめたからよかったなあ。何事も好きなものが多い方か楽しいよね。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

八月の鯨(映画のカクテル作ってくれるバー)に次行ったら、ズートピアゴーストバスターズ(あればホルツマン)を頼もうと思います。

次はファンタスティックビースト見に行こ。

 

部活で作った英語スピーチの供養をしたいから、日本語訳つけてブログに載せる

講読が難しすぎてまったく読む気になりません。

 

私はかつて、ESSで英語使ってディベートやら演劇やらディスカッションやらをしていました。その中で、私はスピーチを専門に活動してたんですが。

このESSのスピーチの大会って、原稿審査&原稿読み音声審査を通過しないと本選に出れない仕組みになってるんです。

まあ私は、ことごとく予選で落ちちゃいまして。

せっかく作ったものが日の目を見ることは永遠になくなっちゃったわけです。

というわけで、せっかくなので供養します。

(添削してくださった先輩方、その節は本当にお世話になりました。)

 

簡単に言うと、「性別によるらしさイメージって、おかしくない?」って話です。

以前書いた「エマワトソンと私の共通点」のプロトタイプ的な部分があるお話です。

講読やりたく無さすぎて日本語訳をつけたのでよかったらどうぞ。

 

 

Chain around Us

見えない鎖

 

There is one chain. This chain is invisible and always follows us.

私たちはある“見えない鎖”によって縛られています。

We cannot escape easily even if we struggle to break it.

それはどんなにもがいても簡単に振りほどくことは叶わず、

Sometimes, this chain forces us to feel terrible pain, like him.

凄惨な苦痛を与えることさえあるのです。

今からお話しするのは、この鎖で苦しんだ男の子の話です。

 

Mum, I'm tired of people being mean to me. That I'm ugly and stupid. ”

「お母さん、もう疲れちゃったよ。僕は醜いし、馬鹿なんだって。」

The boy whispered to his mother.

ある男の子が母親にそう呟きました。

His name is Michael Morones.

彼の名前はマイケル・モローンズ。

This 11-year-old-boy was being bullied at school.

11歳で、学校でいじめられていました。

“You’re sissy! So you must be gay. ” 

“You are ugly . “You are stupid. ”… such heartless words ripe his heart into pieces every day.

「なよなよしやがって、ゲイだろ」「キモい」「お前って馬鹿だよな」・・・・

心無い言葉が学校で彼の心を引き裂きます。

 

He tried to handle it, but it was too hard for a little boy to bear brutal abusing.

いじめに負けず、耐えようとがんばったものの、幼い彼には酷なことでした。

Finally, he choosed the worst way to escape from bullying: kill himself.

そしてついに、最悪の方法でいじめから逃れようとしてしまいました。

自殺を図ったのです。

His attempted suicide left him with a serious damage in his brain.

不幸中の幸いか、命は助かったものの脳には重い障害が残りました。

He used to learn to play the violin, go to after school events with friends, and learn about religion and the bible -he used to enjoy his school life.

However, he can’t do anymore due to damage. His life completely changed.

バイオリンを弾いて、学校帰りに友達と遊んで、聖書や宗教について勉強して。

そんな、いつも通りの学校生活は、もうやってきません。

それほどに重い障害が残ってしまったのです。

彼の人生はすっかり変わってしまいました。

 

Why did it happen? People around him going so far to make him kill himself ?

どうしてこんなことが?彼はどうしていじめられなければならなかったのでしょう。

The reason is so simple.

理由は単純です。

Just because he enjoyed watching “girls “oriented TV program even though he is a “boy”.

『「男」のくせに、「女の子向け」のアニメが好きだったから。』

 

When I read this story, I felt tears running down my face.

この話を知ったとき、涙を流さずにはいられませんでした。

“Why such a little boy had to be treated terribly just because he enjoyed his favorite TV show? ” I screamed in my mind.

「好きなアニメを楽しんでいただけで、どうしてこんなことをされないといけなかったの!?」

私はひどく憤りました。

This tragedy shocked me, so I decided to share my words so that you notice the invisible chain: gender role stereotyping.

しかしこの事件が、私を動かし、

ある「見えない鎖」について、今回お話ししようと決めたきっかけになったのです。

その鎖は、「ジェンダー規範」といいます。

 

Gender role stereotyping is a socially expected role decided by our sex. For example, women should be graceful and do housework and men should be tough and work outside.  

ジェンダー規範とは、社会から期待される「性別に基づいた役割」のことです。

例えば、

「女性は優しく穏やかで、家事をするもの」「男は強く、外で働くもの」といったものがあげられるでしょう。

 

Ladies and gentlemen, we’re all bound by the chain of gender role stereotyping, suffocated, hurting ourselves.

みなさん、私たちはこのジェンダー規範のせいで

息苦しく、生きづらい思いを抱えなければいけないことがあったのではないでしょうか。

例えば。

 

When you were children, did you be said like “you are boy ! So DON’T cry. ” or, “you should be graceful because you are girl. ”?

子供のころ、

「男の子なんだから、泣かないの!」

「女の子なんだから、おしとやかにしなさい」

と言われたことはありませんでしたか。

 

When you were teenager, did you be said like “You fear to ride a roller coaster even you are man!  That’s pathetic! ” or “You are too rough for a female. You should behave more femininely.” ?

中高生になって

「男のくせに、ジェットコースターも乗れないの?情けな!」

「女の子なのに、がさつすぎるよ。もっと女性らしくしたら?」

と言われたことはありませんでしたか。

 

Now, through your collage life, have you ever been said like “You are female, nevertheless, you are hopeless at cooking. ” “You are male, nevertheless, You can't hold much alcohol. ”?

大学生の今だって、

「女の子なのに、料理下手とかひどいねえ」

「男のくせにぜんっぜん飲めないなんて」

  と言われたことはありませんでしたか。

 

You are boy, you are girl, you are male, you are female, so, so, nevertheless, nevertheless… That’s enough! That’s enough.

男の子なんだから、女の子なんだから、男のくせに、女のくせに、

らしくない、らしくない、らしくない・・・・・・

もう十分!もう十分です。

 

Why should we draw boundary of “man” and ”woman”? Why should our characteristic belong to our sex? What we like and how we feel depend on “each of us”, not “our sex.”, right? It is so nonsense if our preference were determined by our sex.

どうして、わざわざ“男”と“女”で境界線を引かないといけないのでしょう。

個性は性別に依存するものなのでしょうか?

好きや嫌いはそれぞれ「わたし」という個性によって決まるのではないでしょうか。

性別を理由にするなんて、ばかげていると思いませんか。

 

Some may think, “It doesn’t make any difference to me even if they say to me like, “you should be girlish or boyish.

でも、「女の子らしくしろ」「男の子らしくしろ」って言われたって気にしない。

という人もいるかもしれませんね。

 

However, given it is so to you, how about to your family, to friends, and to future children? Can you ensure yourself that the same thing will not be likely to happen as I introduced in the beginning?

確かにそうでしょう。だけど、その言葉を、

家族に、友達に、未来の子供達へ言うことはできますか。

冒頭でお話ししたような痛ましい事件が、二度と起こらないと胸を張って言えますか。

That chain would not be broken, as long as we take gender role stereotyping seriously.

 私たちがこの問題に真摯に取り組まない限り、ジェンダー規範は残り続けるでしょう。

 

It is true that finding the very cause of this chain is difficult, let alone, getting rid of it. There are many factors behind it.

この“見えない鎖“-ジェンダー規範を生んでいるはっきりした原因を見つけるのは簡単ではありません。様々な要因が絡み合っているからです。

 

But, I’m sure we can do something, if small, to change the situation. So, I want to share some action with you.

しかし、小さくとも、何か行動を起こすことはできます。

それを、今から伝えさせてください。

 

That is to pay close attention to “language”. I want to share two things about it.

ジェンダー規範に抵抗するために、

どうか、「言葉遣い」に注意を払ってもらいたいのです。

 

Firstly, consciously, try not to use this expression: “too~ for a male or female”. That’s to say, try not to use such expressions below to boys and girls respectively; “you are too sensitive for a male.” to boys, “you are too strong for a female. ” to girls.

というのも「男のくせに」「女のくせに」という言葉を使うのをやめるよう、努めてほしい。

「男のくせに、繊細すぎる」「女のくせに、強気すぎる」といったような言葉を使わないでほしいのです。

 

Secondly, if you heard these phrases, please try to give a moment to think.

“Does such characteristic really come from their sex?”  “Does such characteristic really relate with their sex?” Please ask yourself a question.

そして、

もし「男のくせに・男なんだから」「女のくせに・女なんだから」といったような言葉を聞いたなら、

「それは、本当に性別と関係があるのだろうか。」

「性別を引き合いに出す必要があるのだろうか。」と、考えてみてほしいのです。

 

 

Ladies and gentlemen, conversation is essential to our life. So making a conscious effort on language is significant; it help us to change this situation. This will be the first step to cut down the invisible chain.

会話なくして私達の生活は成り立ちません。

だからこそ、言葉遣いを注意することで変えられものがあると私は信じています。

これは、“見えない鎖”を砕くための最初の一歩なのです。

 

To conclude my speech, I introduce some lines for everyone. “We may seem as different as the night is from day. But you look a little deeper, and you will see. That I'm just like you and you're just like me.”. Actually, this lines are from the animation the boy likes who I introduced the beginning of my speech.

最後に、ある歌詞を紹介したいと思います。

“私たちってそれぞれ、全然違って見える。夜と昼みたいに。”

“でもねよく見てみればわかるはず”

“あなたとわたしはとっても似てるってこと”

 

実はこれは、最初にお話しした男の子が好きだったアニメの挿入歌です。

 

Dear sisters and brothers, we are different in terms of sex like the night is from day. However, before we are “man” or “woman”, we are “human”.

親愛なるみなさん、私たちはそれぞれ全然違うものに見えますよね。

それはちょうど、夜と昼が違うのと同じように。

だけど、私たちは「男」だとか、「女」である前に、

同じ「人間」なのです。

 

Sex is just one of our aspects, so why don’t you respect each other? Now is the time to realize and break this invisible chain.

性別は私たちの一側面にすぎません。

ジェンダー規範抜きで、「その人」を見つめて、お互いを尊敬しあいませんか。

今こそが“見えない鎖”を砕くその時なのですから。

 

注:競技の発表時間制限に基づく、文字数の限界のため、セクマイの議論はカットしてあります。ジェンダー論のくせに男女二元論で語ってんじゃねえとお思いかと思いますが許してください・・・。